舞鶴館 (ユニバーサル造船株式会社)       
      

1.舞鶴海軍工廠の発足
  明治34年(1901年)10月1日、舞鶴鎮守府の開庁とともに発足した舞鶴造船廠を中核として、2年後の明治36年(1903年)11月10日、海軍工廠条例公布の5日後、兵器廠と需品庫を併せて「舞鶴海軍工廠」として名乗りを上げました。 発足当初は艦艇の修理が主でしたが、明治38年(1905年)8月1日、待望の駆逐艦「追風(おいて)」を起工し、駆逐艦専門工廠としてのスタートを切りました。
                                                         
2.要港部工作部に転落
  大正11年(1922年)8月17日のワシントン軍縮条約の発効により、大正12年(1923年)4月1日、舞鶴鎮守府は舞鶴要港部となり、舞鶴海軍工廠は要港部工作部となりました。 舞鶴では駆逐艦の建造が年3隻から年1隻に減少する一方、軍艦香取、鹿島の解体が行われました。 この解体作業に従事した工員の端に至るまでみな泣きながら作業に当たったといわれています。 舞鶴海軍工廠は京都府下最大の軍需工場として7000名を越す従業員を擁していましたが、仕事量の減少に伴い、4度にわたり人員整理が行われ、2167名に及ぶ人たちが離職しました。地方経済に与える影響も甚大で、舞鶴内外に多大な影響を与えました。
                                                         
3.海軍工廠に復活舞鶴海軍工廠の発足
  列強海軍が無条約時代に突入する1年前の昭和11年(1936年)7月1日、要港部工作部は舞鶴鎮守府の昇格に先立ち海軍工廠に復活しました。 7月12日は工廠昇格式に始まり、盛大な祝賀行列が行われました。 この工廠復活は5千の工廠従業員はもとより、地元舞鶴の市民にとっても待望久しきものでした。 舞鶴鎮守府の復活は3年後の昭和14年(1939年)12月1日のことでした。
                                                         
4.飯野・舞鶴造船所となる
  終戦後の昭和20年(1945年)12月5日、日本商船と掃海従事船舶の修理が認められ、続いて同月22日、艦船のサルベージと解体の業務が追加承認されました。 舞鶴工廠の引き受け手として地元企業であり海軍に非常に協力的であった飯野産業㈱に白羽の矢が立ち、同社内には自重論と賛成論が交錯していましたが、飯野寅吉会長の断によりお引き受けすることになりました。 昭和21年(1946年)3月31日、旧舞鶴海軍工廠運営の移譲を受け、従業員約2500名を引き継いで翌4月1日、飯野産業㈱舞鶴造船所として発足しました。 昭和28年(1953年)11月3日、戦後待望の第1船飯野海運「長島丸」の進水式が行われ、大勢の観客が造船所を訪れました。 同年11月、飯野産業㈱舞鶴造船所から飯野重工㈱舞鶴造船所に社名が変わりました。
                                                         
5.舞鶴重工業㈱から日立造船㈱へ
  昭和38年(1963年)4月1日、舞鶴重工業㈱舞鶴造船所として再出発し、飯野系を離れて日立造船の系列となりました。 昭和43年(1968年)4月1日、舞鶴造船所の土地建物が国から払い下げられることとなり、昭和46年(1971年)4月1日、舞鶴重工業㈱舞鶴造船所は日立造船㈱と合併し、日立造船㈱舞鶴工場となりました。
                                                         
6.NKK造船事業部門と事業統合しユニバーサル造船㈱へ
  平成14年(2002年)10月1日、ユニバーサル造船㈱舞鶴事業所として新しい歴史を刻むことになりました。 平成15年(2003年)11月、舞鶴事業所は舞鶴海軍工廠発足から数えて100年を迎え、歴史と伝統と最先端技術が融合した舞鶴事業所は、日本海側唯一の大型造船所として、海上自衛隊舞鶴の基地造船所として、舞鶴市民に愛される舞鶴の造船所として発展を続けています。